学園ラグビー部の歴史

学園にラグビーを持ち込まれたのは昭和10年頃、当時関西工学校建築科の教諭大海卯一先生が体の強そうな連中を集め、ラグビー競技の手ほどきをされたのが 始まりで、その後陸上部、柔道部、剣道部よりこのラグビー競技に興味を持つ者が集り、昭和11年頃にむつかしいルールもほぼ覚え、チームとしての陣容もと とのったので関西工学校ラグビー部として、学校側の許可も受け、西部ラグビー蹴球協会に加入、昭和12年2月24日正式に関西工学校体育会ラグビー部として誕生した。当時100校近くあった府下中学校でもラグビー部の有る学校は未だ少なく大正14年に創部した天王寺中学校、北野中学校を始め、その後に出来 た八尾中学校、浪華商業、京阪商業、四條畷中学校、興国商業、浪高尋常科、日本大学附属大阪中学校に続いて、府下第10校目のラグビー部誕生であった。然し乍ら昭和10年頃は未だラグビー競技と云うものが社会的に理解されておらず、ラグビーと云うものは危険なもの、荒っぽいものと思われ反対する父兄も多 かったので、部員はほとんど親に内緒でラグビーをする者が多かった。又当時旧制中学は現在の中学校の様に義務教育ではなく、小学校を卒業すると、都会では 約4割が、地方田舎では約2割が中学校に進学をした。旧制中学は5年制で東京の早稲田実業、大阪の都島工業は6年制であった。関西工学校は乙種工業で全国 に只1校の4年制であったので他の中学が最上級生5年生に対し関西工学校は最上級生が4年生故にそのハンデは如何ともし難く、創部より10年間、関工ラグ ビー部員は4年を卒業する際、せめて他校の様にもう1年残れたらと無念の涙を呑み乍ら、グラウンドを去って行ったもので有る。

 

ジャージの歴史

戦後、大阪工大高の校名になってから昭和32年までは、青地の胸に白で腕まで2本線、33年は白一色でした。

34年度、指導者を失い 不安定な時期、西河主将のもと「ジャージを一新して出直そう。」ということで、色々な人脈を通して他校にないデザインを調査 し、最終的に当時の3年生が検討し現在の紺地の胸に赤2本線のジャージが誕生しました。当時、無地か段柄がほとんどの中で斬新なデザイン配色でした。紺は 淀川の水を、胸の赤2本は闘魂を表しています。

セカンドジャージは、当初正規のジャージと逆の赤地に紺の2本線でしたが、抽選負けなどが あり、縁起が悪いと言うことで、白一色になり、次に白地に 片腕に赤と紺のラインを入れました。その後そのラインは両腕に入れられました。しかし、2005年新しいデザインとなりました。白地ではあるものの一新し ました。そして2007年全国大会にむけ、セカンドジャージは赤地になりました。そしてそのセカンドジャージにはNAVYREDSのロゴをいれました。